母は、秩父盆地の開業医の父のあとを、長男の私が継ぐものと思い込んでいたので、医者にもならず、俳句という飯の種にもならなそうなことに浮身をやつしている私に腹を立てていた。
碌でなしぐらいの気持ちで、トウ太と呼ばずヨ太と呼んでいて、私もいつか慣れてしまっていた。いや104歳で死ぬまで与太で通した母が懐かしい。
(『皆之』)