出牛は、江戸時代から宿場としてにぎわいました。特に、上州(上野の国 群馬県)と秩父の往来に、また中山道本庄から児玉を経て秩父の道は秩父街道といって、本庄・小鹿野間の乗合馬車が開通すると益々にぎわいました。
また秩父札所巡礼の道でもあり、絹の道でもあったのです。出牛人形は、そうした時代に宿場出牛の芸能として長い間発展してきました。
出牛人形の特徴は、首は大きく気品があり、衣装も豊富です。また、1メートルほどの人形を主遣いといって、首と胴を左手で操り右手で人形の右手を、左遣いといって人形の左手を、また足遣いの3人からなる、大阪文楽と同系のものです。
首53、手13、足13、胴18、衣装154点、他に大道具、個道具、掛小屋に用いた芸能二基、引幕等数十点があります。
大正3年の上演を最後に50年間の断絶がありましたが、地元の人たちの努力で出牛人形浄瑠璃は復活しました。